先日も無事に第18回目の勉強会を行うことができました!「継続は力なり」です。何よりですね!
しかしながら、今回の記事では昨日行われたジェットさんとの対談配信の内容をまとめておこうと思います。
対談までの経緯
関西にお住まいの20代男性のジェットさんは、2ヶ月辺り前から「聖書について頭と心の整理ができる情報はないだろうか・・」とインターネットで情報収集を始められたようです。
そこで、ありがたいことに私が書いたブログ「聖書を暗記した元エホバの証人のブログ」を発見してくれます!
出張先のホテルでの出来事だったそうです。笑
そのホテルで朝まで一睡もせずにブログを読んだジェットさんは「ぜひ、ブログを書いた人に色々と話を聞いてみたい!」と思い立ち、私にダイレクトメッセージを下さいました。
このような経緯で今回の対談が計画され、そして昨日には無事に対談を終えることができたわけです。
ジェットさん、声をかけて頂きありがとうございました!!
昨日の対談で話し合われた主な論点は以下の6つです。基本的には私の個人的な考え方や意見がほとんどになりますが、参考になれば嬉しいです。
- 正しい聖書の勉強方法とは?
- 協会の出版物以外にどの書籍を参考にすべきか?
- エホバの証人の新世界訳は間違っているのか?
- 現役の親や友人に覚醒の件を話すべきか?
- 統治体や上層の兄弟たちには悪意があるのか?
- エホバの証人たちは罪に対してギャーギャー騒ぎ過ぎる件
正しい聖書の勉強方法とは?
聖書に限った話ではありませんが「何かのジャンルを正しく把握したい」と考える場合、そのジャンル全体を把握するために全体を俯瞰することは非常に大切だと思います。
同じように、聖書を正しく把握したいと考える場合、最低限、聖書に書かれてある内容全てがある程度は頭の中に入っていることは絶対条件だと思います。
そうすると、聖書を正しく把握したい場合に考えるべきなのは「どうすれば聖書全体の内容を効率よく頭の中に叩き込めるか?」になるでしょう。
10年ほど前の話になりますが、私の場合は主に以下2つの方法によって、聖書の内容を頭の中に叩き込みました。
- ヘブライ語聖書(旧約):写経(書き写す)を1日1〜2時間ほど
- ギリシャ語聖書(新約):音読を1日1〜2時間ほど
これを、3、4年くらいは毎日やっていたと思います。聖書を毎日3、4時間は勉強していたことになりますね。
書き写すこと、音読すること。この2つの勉強方法を採用することにしたのは、何も自分の思いつきなどではなく、聖書の『箴言』で勧められていたからです。「理解したいなら写経しなさい、音読しなさい」と。
私は単純に「聖書」を正しく理解したかったので、自分の聖書研究の際にはものみの塔誌や協会の出版物は完全に無視しました。
(詩篇も長すぎたので省いています。老後にでも研究しようと思います笑)
ただ、洞察と霊感の本だけは参考程度に利用しました。洞察の本は聖書辞典として優秀だと思いましたし、霊感の本は聖書をわかりやすく要約していると思ったからです。
3、4年ぐらい上記に挙げた2つの方法で旧約聖書と新約聖書を勉強していましたので、後半あたりになってくると聖書各書の内容はほとんど頭の中に入っていました。
聖書各書の内容が頭に入っていたので、あとは66書それぞれを交互に結びつけて、全体の流れで見比べて、このようにして聖書全体を理解するようにしました。
組織の出版物以外にどの書籍を参考にすべきか?
エホバの証人の世界では教えられることはほとんどないでしょうが、聖書を研究するにあたって一般常識的に「絶対に必読」とされている歴史的な書籍がいくつかあります。以下のような書籍です。
- ユダヤ古代誌(フラウィウス・ヨセフス)
- ユダヤ戦記(フラウィウス・ヨセフス)
- 教会史(エウセビオス)
- アレクサンドリアのフィロンの著作
フィロンはイエスと同時代を生きたユダヤ人の哲学者、ヨセフスは使徒パウロと同時代を生きたいユダヤ人の軍人であり歴史家、エウセビオスは3、4世紀に生きた初期クリスチャンであり聖書学者です。
これら歴史的な書籍は「ものみの塔」や「目覚めよ」とは決して比較にならないほどの伝統的な正統性と社会的な権威を確立しています。
エホバの証人の組織(1870年生まれ)が書いた文章とヨセフス(37年生まれ)が書いた文章、どちらがより古代ユダヤ文化を正しく反映しているのか、比較するまでもありませんよね。
エホバの証人の組織(1870年生まれ)が書いた文章とエウセビオス(263年生まれ)が書いた文章、どちらがより初期キリスト教の教えを正しく伝達しているのか、これもまた比較するまでもありません。
つまり、不純物や異物が紛れ込んでいる可能性の高いエホバの証人の資料にわざわざ頼らなくても、アマゾンや書店に行けば、ユダヤの歴代のラビたちや初期キリスト教の教父たちが書いた純度が高くピュアなユダヤ教やキリスト教の情報が手に入るわけです。
このように、一歩、エホバの証人の世界から外に出ると、そこには広大で伝統的な聖書の世界(古典ユダヤ教や初期キリスト教を含む)が広がっています。
それなのに、エホバの証人たちはその事実を成員たちに教えません(というか、長老たちや監督たち自身が知りません)。
聖書の広大な伝統や歴史を無いものとして、自分たちが聖書の世界を切り開いてきた先駆者、あるいは第一人者なんだ!という顔をして、偉そうに聖書について語ります。
これは例えるなら、入社1年目の新入社員が職場で偉そうに威張っている様子に似ているでしょうね。いや、先月入社したばかりのバイト君と言った方が正しいでしょう。
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先月入社したばかりのバイトJ君:
「僕はこの会社のことは何でも知ってます!というか、他の社員たちは全く信用できませんから、この会社のことは全て僕が教えて上げましょう!」
それを聞いた従業員たち:
「わー祈りの答えだー!ありがとうエホバ!私たちはJ君を信じます!J君、新しい理解を私たちに教え、私たちを導いて下さい!」
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このようにして、聖書の歴史について何も知らない従業員の方々は、先月入社したばかりのバイトのJ君に案内されるままに「大きな穴(つまり、聖書に対する間違った世界観など)」へと誘導されることになる訳です。
「彼らのことはほっておきなさい」とイエスも言っているので、彼らのことはほっておきましょう笑(マタイ15:14)
エホバの証人の新世界訳は間違っているのか?
このテーマに関してはネット上でも色々な記事が書かれているのを以前からずっと見てきましたので、個人的にも色々と言いたいことはあります笑
まぁ、確かにエホバの証人が出版している「新世界訳」と一般的に日本で普及している「新共同訳」などの間に見られるように、聖書には翻訳によって少々の差異があるのは事実です。
しかしながら個人的には「その話をするのであれば、新世界訳の翻訳云々(うんぬん)よりも前に論じるべき聖書翻訳に関するテーマがあるのでは?」と思います。
例えば、新世界訳にせよ新共同訳にせよ、その翻訳の元になっている底本は同じで「マソラ・テキスト(マソラ本文)」と呼ばれるユダヤ社会に受け継がれているヘブライ語聖書(旧約)、俗に言うレニングラード写本です。
まず第一の問題は、このレニングラード写本の制作年代が1008年で、割と新しい点でしょう。
イエスの時代からこの写本が制作されるまでに実に1000年もの空白期間(ギャップ)があるわけですから、その間に改ざんされている可能性や写本から断片がこぼれ落ちてしまっている可能性だって十分に考えられます。
つまり、新世界訳の翻訳について論ずるよりも以前に、聖書の底本自体が改ざんされている可能性があり、これは新世界訳だろうが新共同訳だろうが、その他、世界中に普及しているほぼ全ての聖書翻訳が全く同じ問題を抱えている訳です。
(ちなみに、レニングラード写本の改ざん疑惑は1947年の死海写本の発見によってほぼ完全になくなりました。死海写本は紀元前2、3世紀まで遡ることのできる聖書の完全な写本群です。ゆえに、『死海写本は20世紀最大の発見』と言われています。つまり、私たちはイエスの時代とほぼ同じ内容の聖書を手にしていると考えることが妥当です)
2つ目の問題は七十人訳(セプトゥアギンタ)の存在です。
七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)とは、先述のマソラ・テキストとは全く別の系統の聖書翻訳で、紀元前にユダヤ人たちによってギリシャ語に翻訳された旧約聖書のことです。
実は、このセプトゥアギンタの場合は先述のレニングラード写本(10世紀頃)よりも遡れる年代が500年以上も古く(4、5世紀頃)、遡れる年代が古いと言うことはそれだけ改ざんのリスクを除外でき、正統性を担保できます。
しかもイエスや使徒たちがもっぱら利用していた聖書はこのセプトゥアギンタであり、マソラ・テキストではないという大きな懸念事項もある訳です。
つまりまとめると、聖書には以下のように2つの底本となり得るテキストの系統があり、新世界訳の是非を論ずるよりも先に「2つの系統の内どちらを翻訳の底本として採用するのが正しいのか」を考える必要があるわけです。
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マソラ・テキスト(レニングラード写本):
1008年制作、ヘブライ語。現在の翻訳底本の主流。新世界訳や新共同訳もこの系統
セプトゥアギンタ(バチカン写本・シナイ写本・アレクサンドリア写本):
4、5世紀制作、ギリシャ語。イエスや弟子たちが使用。しかし翻訳底本の主流ではない
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ここでさらに大きな3番目の問題が浮上します。
なんと、マソラ・テキストとセプトゥアギンタでは表記されている人物の年齢や、イベントの年数が100年くらいズレていたりするのです笑
例えば、創世記に出てくるエノクに関して、メトセラが生まれた時のエノクの年齢はマソラ・テキストの方では65歳(創5:21)になっていますが、セプトゥアギンタの方では165歳になっています。
創世記だけでも人物の年齢が100ほどズレていたりする箇所が数十箇所にも及び、これは決して無視できないレベルの違いだと思います。
メトセラが生まれた時、エノクは65歳だったのでしょうか?それとも165歳だったのでしょうか?
イエスや弟子たちが利用していたのはセプトゥアギンタだと考えられていますので、それならば、私たちもセプトゥアギンタを底本とする聖書を使って勉強すべきなのでしょうか?
このように、そもそも聖書という文書には(その歴史があまりにも大きくて古過ぎるために)たくさんの学術的かつ考古学的な問題が山積みなのです。
しかしながら、ありがたいニュースが1つあります。
つまり、細かい部分は確かに違っているけれど、その内容の大筋では「どの翻訳でも基本的には全て同じ」と言うことができる点です。
どの翻訳の聖書でも、アダムはしっかりと罪を犯しますし、ノアもしっかりと箱舟によって救出されます。
どの翻訳の聖書でも、古代イスラエルは神に対して甚だしい反逆を繰り返しますし、同様にイエス・キリストも最後の審判のために臨在すると書かれています。
聖書に期待できる精度はモナリザの写本と同じ
聖書の写本にどれほどの精度を期待すべきかに関しては(個人的な意見になりますが)「モナリザの写本」に対する期待ぐらいがちょうど良いと思います。
つまり、「モナリザの写本」が仮にあったとして、その写本で描かれているモナリザが男性として描かれていたとすれば、それは致命的な改ざんです。本質を誤って伝えるレベルの改ざんは許容できません。
あるいは、優しく温かい微笑ではなくて、例えば「モナリザ」が泣いていたり、怒っていたりしたらどうでしょうか?この場合も先の男性の場合と同じように致命的な改ざんだと言えるでしょう。
一方で、その写本がモナリザが本来伝えている温かさや奥ゆかしさ、神秘的な雰囲気などをしっかりと伝えているとすれば、多少は線の長さが違ったり配色が違ったりしても、そこまで大きな問題にする必要はないのではないでしょうか。
聖書も同様でしょう。聖書もその本質的な内容に関してはどの翻訳でも同じでしょうし、エノクや他の人物の年齢が100年くらいズレていたとしても「まぁどっちかなんだろうな」くらいのテンションで問題ないのではないでしょうか。
それよりも大切なのはやはり、古代イスラエルと人類との関わりや、キリストの将来の再臨の記述の方です。
絶対に譲れないポイントさえしっかりと正確に伝達されている限り、多少の翻訳上の差異は大きな問題ではないと思います。
(よほど心配なら翻訳が違う聖書を2、3冊使って勉強すれば良いだけですし、聖書の外典や偽典までもしっかりと研究すれば良いでしょうね)
最後に個人的に思うこと
以上のように考えてみますと、エホバの証人の「私たちの新世界訳は神の導きを受けているので正しい聖書です」と言う主張には、単純にムリがあります。
なぜなら「新世界訳」がすごいと言うよりは、そもそも、その底本になっているマソラ・テキストの歴史や伝統の方が圧倒的に凄いわけですし、全く別の系統ですけどセプトゥアギンタだって十二分に凄いわけですし・・。
エホバの証人たちの「新世界訳すごいでしょ!」って言うのは単純化すると、お母さんが既に作ってくれたすごく美味しそうなカレーライスの上にパセリを1つ乗っけただけの子供が「僕が作ったカレーすごいでしょ!」って自慢しているみたいで下らないですね笑。
自分たちの翻訳を自慢したい気持ちは分からなくはないですが、聖書翻訳や写本の歴史的背景を少しでも知っているなら「私たちの聖書すごいでしょ!ドヤ」とはならないと思います・・まぁ無知がなせる業ですね・・。
さてさて、対談の残りの3つのポイントに関しては(この記事の分量が多くなりましたので)また別の機会に書こうと思います。
- 現役の親や友人に覚醒の件を話すべきか?
- 統治体や上層の兄弟たちには悪意があるのか?
- エホバの証人たちは罪に対してギャーギャー騒ぎ過ぎる件
まぁ結局のところ、これら3つのテーマに関しても「エホバの証人の方々はやはり勉強不足ですね。残念ですね」と言う結論になるのでしょうが笑