排斥や断絶でなぜ傷つくのか

1: 排斥や断絶で、なぜ傷つくのか?その原因と理由

エホバの証人の組織から「排斥や断絶」になるとひどく傷つく場合がありますが、その主な原因は以下の2つでしょう。

  • 全知全能の神から否定された
  • 長老や兄弟姉妹たち、家族から否定された

人は誰しも、自分のことを否定されると傷つくものです。これは人間の基本的な脳の仕組み(心の仕組み)なので、自然なことです。

小学校の低学年のころを思い出してみて下さい。クラスメイトたちから仲間はずれにされたらとても傷ついたのではないでしょうか。

大人になってもこれは変わりません。職場の上司や同僚たちから嫌われたり、自分の性格や人格のことを悪く言われたりすると誰でもひどく傷つきます。

人は、物心ついた時から墓場に入るその直前まで、自分のことを悪く言われたり否定されたりするとひどく傷つく生き物なのです。

 

今回はこの点について深く考えていきます。

この「徹底攻略の手引き」シリーズの導入として、まずは人が傷つく仕組みについて考えてみましょう。私たち人はなぜ傷つくのでしょうか。

人が傷つく仕組みを理解しておけば、傷つくか傷つかないかを「意図的に選ぶ」こともできるようになりますし、何かと助けになるでしょう。

さらに、人が傷つく仕組みを予め確認しておくことは、排斥や断絶といった今回のテーマを深く考える上でもとても助けになると言えるでしょう。

人はそもそも、なぜ傷つくのか?

人は主に、以下3つの場合に傷つきます。

一番上は分かりやすいので誰でも意識しながら生活していますが、下の2つは比較的分かりづらいので注意が必要です。

  • 自分の尊厳や自尊心が他者によって、あからさまに傷つけられた時
  • 自分自身の評価を他人に任せており、望ましい評価がもらえなかった時
  • 自分自身の評価を自分でしており、自分の理想に達しないと感じた時

一番上に関しては分かりやすいので今回は深く考えません。今回の記事では特に真ん中のケースについて考えていきましょう。

自分の評価を他人に任せているパターンです。

さて、私たちは物心ついた時から現在に至るまで、実に様々な人たちからの評価を受けてきました。

自分を評価する一番最初の存在、それは一般的に親だと思います。

「おりこうさんね」「偉いね」「よくできたね」「スゴいね」といった言葉は、高く評価してもらえた時に親からもらえる言葉です。

子供だった頃そのような褒め言葉をもらえた時には、自分がとても誇らしい気持ちになり、そして無邪気に喜んだのではないでしょうか。

一方、親の基準に達しない、あるいは親の機嫌を損ねてしまった場合に自分に下される評価は次のようなものだったことでしょう。

「悪い子だ」「ダメ」「頭わるい」「やり直し」。

こんな調子でまずは親から始まり、小学校に入学するとそれに先生やクラスメイトたちが加わり、社会人になるとさらに上司や同僚たちが加わる、といった流れになっております。

いかがでしょうか。

私たちは実に長い間、他人によって自分を評価し、他人からの評価によって自分の価値の高い低いを判断してきた訳です。

他人依存タイプ:自分の価値は他人が決める

さて、問題はここからです。

あまりにも長いこと他者によって自己評価を続けていると、人は自分の価値に関して完全に他者に依存するようになります。

そうです。自分で自分を評価することを忘れてしまうのです。それを拗らせると「自分の価値を決めるのは他人」という極端な価値観を持つようになります。

まるで深海にすむ深海魚のように、自分を評価するための「目」をずっと使っていないためにそれが退化してしまうかの様です。

このような人は、自分の価値を判断するシグナル(証拠)を自分の内側にではなく、もっぱら自分の外側に求める傾向も強くなるようです。

そのような人は、調子が良い時には次のようなことを心の中で繰り返し考えます。

  • 「自分は友達が多い!自分には価値がある」
  • 「上司から褒められた!自分には価値がある」
  • 「自分はBMWに乗っている!自分には価値がある」

一方で、調子が悪い時は次のように考えるようです。

  • 「仲間に受け入れてもらえない・・自分はダメだ」
  • 「上司に叱られた・・自分はダメだ」
  • 「高価な持ち物が買えない・・自分はダメだ」

自己評価を完全に他者に依存している、その様子が伺えるのではないでしょうか。

自己評価を他人に依存している人はまるで、心の起爆スイッチを他人に渡している人に例えることができます。

自分の自尊心が木っ端みじんに爆発するか、あるいは穏やかに静かにたたずんでいられるかどうかは全て他人次第という訳です。

理想的なのはバランスタイプ

何事にも言えることですが、一番望ましいのはバランスの良い考え方だと言えます。

「バランスが良い」という言葉は「少数に偏っていない」「数多くの視点に支えられている」といった意味になるかと思います。

つまり、親や上司、自分の周りのごく一部の人間たちだけの評価といった偏った見方で自分を図るのではなく、もっと広い視野を使って自分を図ります。

例えば「一般的にはどうだろうか?」「他の国ではどうだろうか?」「地球の裏側では通用するだろうか?」「昔の時代はどうだったか?」といった視点です。

このような広い視点を持って考えますと、良い意味での「平均化」が働きますので、自分の考えが極端なものに走ることを未然に防ぐことができます。

さらに重要なこととしては「自分の心の声」に耳を傾けることでしょう。自分の心の声とはつまり、他人の評価とは一切関係のない自分の正直な欲求です。

  • 「自分は楽しいか?」
  • 「自分は嬉しいか?」
  • 「自分は心地よいのか?」

このような心の奥底から湧いてくる自分の心の声に耳を傾けることによっても、自分が正しい方向へと進めているのかをある程度は正しく判断することができます。

結論としては、バランスの取れた自己評価、自意識を保つためには次の3点が欠かせないものとなるでしょう。

  1. 自己評価を他人に完全依存しない(自分の価値を他人にとやかく言わせない)
  2. あらゆる人たちや様々な状況を参考にして自分の価値を認識する
  3. 自分の心の声、自然と湧いてくる欲求を大切にする

排斥や断絶でなぜ、傷つくのか?

さて、本題に戻りましょう。エホバの証人の「排斥 / 断絶」という制度で傷つくことがあるのはなぜか、これが本題でした。

と言っても、もう答えは出ていると思います。

そうです、排斥や断絶は今まで考えてきた「人が傷つく条件」すべてを、しかも徹底的に満たしているのです。

あなたの価値は「神」によって決定される

エホバの証人の一員になると「神」があなたの価値を決定することになります。そして、自分の欲求よりも「神」の評価を優先するようにと叩き込まれます。

お気づきでしょうか。たったこれだけのことですが、たったこれだけで先ほど考えた「人が傷付く条件」が大方、満たされてしまうのです。

以下の2点をご確認ください。

  • 自分の価値を決定するのは唯一「神」(つまり、自己評価を100%他者に依存
  • 心の声や欲求はねじ伏せる(つまり、自分で自己評価することが禁止される)

さらに悪いことに、エホバの証人の場合は「神」から与えられる情報以外のものはすべて悪魔サタンからの情報だということになります。

広く大局的に物事を判断することは禁止され、「神」と組織から提供される判断材料こそが自分の良し悪しを決定する唯一の基準であると教えられます。

  • 信頼できる価値基準は「神」と組織からのみ(つまり、自己評価の手段が他者、しかも1つに限定される)

これで「人が深く傷つくの準備」の100%が整いました。

私たちは自己評価を他人に任せることに慣れている

さらに、この状況に拍車をかけるのが私たちが育った環境、つまり社会環境です。

先ほども考えましたが、私たちは生まれてこのかた他人に自分を評価してもらうことに慣らされて生きてきました。

自分が「おりこうさん(あるいは悪い子)」かどうかを判断するのは親でしたし、自分のテストの答案用紙に「100点(あるいは0点)」をつけるのは学校の先生でした。

自分の心の声を聴くことなど教えられることなく、むしろ他人こそが自分を正しく評価できる唯一の存在という価値観の中にドップリ浸かって生きてきたと言えるでしょう。

このような人がエホバの証人の組織へと入っていく訳ですから「自分の価値は100%神によって決められる」ことに完全に同意してしまうとしても、それはその人にとって自然なこと、いえ当然のことでしょうね。

今までもそうであったように、組織に入ったこれからも他人(この場合は「神」)が自分の良し悪しや是非を決めてくれる、めでたしめでたし、という訳です。

エホバの証人の神は、毎日あなたのことを裁く

さて、不思議なことにエホバの証人の「神」は私たちのことを常に、随時、ほぼ毎日、評価するようです。

エホバの証人の成員たちもこのように強く信じておりますので、兄弟姉妹たちの間でもよく次のような会話が交わされております。

  • 「今日エホバが祝福してくれた!」
  • 「仕事が見つかった。エホバのご意志だ!」
  • 「それはエホバですね!」
  • 「エホバの霊によって長老に任命された!」

エホバの証人によると「神」は常にあなたを見ており、常にあなたの行動をチェックしており、あなたが正しい言動をするとそのつど祝福を与え、悪い言動をするとそのつど祝福を控えて懲らしめを与えられるようです。

このような訳で、エホバの証人たちは自分たちの身に降りかかる様々な事柄を「エホバのご意志」として捉えます。

良いことが起こればそれは「エホバ」、悪いことが起こればそれは「サタン」、頑張れば必ず「エホバが祝福」してくれる、といった具合です。

なので、良くも悪くも彼らにとって「神」はすごく身近な存在となります。そうです、良くも悪くもですが。

崖っぷちに立たせておいて、突き落とす

以上のように、エホバの証人たちは自分の評価を完全に「神」に依存したまま日々の生活を送ることになります。

自分の自尊心を常に「神」に預けて生活している、とも言えるでしょう。先ほどの例を挙げるなら、自分の自尊心の起爆スイッチが自分の手の中ではなくて「神」にある訳です。

毎晩、夜寝る前には「私はエホバに十分喜ばれているだろうか?」「私はエホバから十分に祝福されているだろうか?」と自分に問いかけることになります。

そして、「今日は注解が3回も当たったからエホバは私を祝福してくれている!」とか「開拓者として任命されているからエホバは私を認めてくれている!」などと、自分の価値を再確認して眠りに着くことになります。

 

さて、物事が順調な時には特に大きな問題は起きません。

しかし、問題が起きるのは物事が順調ではない時です。とりわけ排斥や断絶といった事態に陥ると、この習慣が致命的な副作用をもたらします。

つまり、「エホバが私を排斥にした」「エホバは私が断絶になって傷つくのを許した」と、このように考えてしまうのです。

拍車をかけるように、審理委員会で長老たちは「神」に祈ることによってそれを強く印象付けますし、聖書を開き「神」の言葉を読むことによってもさらに、それを強く印象付けます。

日本社会で生まれ育ち、他者こそが自分の価値を正しく判断できる唯一の存在と教え込まれてきた人からすれば、排斥や断絶はまさに「衝撃」でしょう。

100%の否定をなんの緩衝や低減もなしに100%の「否定」のまま一身に身に受けてしまうからです。

なんと悲しい構図でしょう。

精神を病んでしまう方が続出するのも当然です。「神」から全否定され、その全否定が何のフィルターもなしに自尊心を直撃するのですから。

これは災害に匹敵すると思います。

もちろん、審理委員会での長老たちの偉そうな態度や冷ややかな眼差しに傷つくこともあるでしょうが、排斥や断絶される人たちだって彼らが「単なる人間」であることは十二分に理解しているでしょう。

排斥や断絶が全てにまさって深く傷つくものである理由は他でもない、それが全知全能の神が関わっているかのような切り口として提示されるからです。

排斥や断絶される人は、これまでずっと自分が深く愛し、深く信頼してきた神から全否定されるのです。

神を愛していればいるほど、神を信頼していればいるほど、それだけその人は(神が関わっているとされる)排斥や断絶から心的ダメージを受けてしまうわけです。

神への信頼の度合いがそのまま心的ダメージとなる制度

さて聖書的なことを言えば、神を深く愛し、神を深く信頼することは何も悪いことではありません。むしろ、その人は信仰の篤い非常に素晴らしい人だと思います。

問題は、神への信頼の度合いがそのまま心的な傷へと繋がる危険性のある「排斥 / 断絶」という制度にあるのではないでしょうか。

本当に神がいるのならば、本当に神が「エホバの証人」という組織を導いているのならば、善良な人たちの尊厳や気持ちをこんなにも踏みにじる潜在性のある制度を設けておいて良いものでしょうか。

しかもこの制度は、神を深く信頼している人ほど(自分の自尊心を神に預けている人ほど)深く傷つくという非常に不親切かつ危険な性質を孕んでいるのです。

神名を使った悪行

聖書によると、聖書の神は人を評価しません。

いえ、厳密に言うと聖書の神は人間を「今は」評価しません。どんな良し悪しも付けません。全て保留です。

では、聖書の神はいつ人を評価するのでしょうか。いつ、人の良し悪しを決定するのでしょうか。

人の死後に1度だけ、キリストの裁判の時に1度だけ人を評価します。少なくとも、これが聖書中で繰り返されている教えです。

 

それでは、エホバの証人の組織が慣行している「排斥や断絶」とは一体何モノなのでしょうか。それには神が関わっているのではないでしょうか。そして、全知全能の神が長老たちを導いているのではないでしょうか。

否です。そこに神はおりませんし、それに神は一切関わっておりません。

審理委員会が行われている場所に神はおらず、神の介入も一切なく、そこにはただ、どこの馬の骨かも分からない中年のおじさんたちがいるだけです。

その中年のおじさんたちが自分たち独自の偏見と責任とによってのみ、対象となるその人に「聖書的に罪人」というレッテルを貼り、「エホバ」という神名のもとに自分たちのコミュニティから村八分にする決定を下しているのです。

そんなバカな・・
本当に神がいるとしたらそんな酷い悪行を放っておくはずはない・・
しかも、神名が使われている悪行なんだから神は行動されるはずだ・・

と、思われたでしょうか。

このような疑問をお感じになる気持ちは分かりますが、このように考える方は聖書中に記録されている「あの重要な出来事」を忘れてしまっています。

それは、神の独り子である「あの」イエス・キリストでさえも神の名のもとに審理委員会にかけられ、コミュニティから排斥され、そして殺されたという事実です。

え、まさか・・あのイエスが審理委員会にかけられて排斥されていた?

全くその通りです。あのイエス・キリストも神の名のもとに審理委員会にかけられ、役割や存在を全否定され、組織から排斥され、しかも殺害されています。

いかがでしょうか。

言ってしまえば、神の独り子であるイエス・キリストこそが排斥 / 断絶者の先駆者であり、排斥 / 断絶者の代表格なのです。

 

なんと衝撃的な事実でしょう。

実はイエス・キリストは排斥者、そして断絶者の大先輩であり仲間だった訳です。心強いのか申し訳ないのか分かりませんが・・

いずれにせよ、これはエホバの証人の組織にとって非常に大きな悪行の可能性を意味しています。サンヘドリンに並ぶ悪行です。

なにせ1世紀に滅び去ったはずの神名を悪用する慣行を、わざわざ引っ張り出してきて19世紀にまた復活させ、そして現在でもしっかりと実践してしまっている訳ですから。

何と罪深いことでしょうか・・。

 

さて、次回の記事では、キリストが審理委員会にかけられ殺される様子をもう一度振り返ってみます。

そしてそれを現代の「排斥 / 断絶」制度と比較しつつ、その制度がいかに神の名の悪用かつ冒涜であるかを聖書を使って分かりやすく説明していきます。

次の記事を読めば、いかに例の「中年のおじさんたち」が聖書の実践に関して恐ろしく無知であり、聖書のことなど何も考えずに行動しているのかがよく分かるでしょう。

神名と聖書を悪用することこそ「甚だしい罪」なんですけどね。

 

(次回の記事は 2019.7月 公開予定です)